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閑話休題(1)−1


このページは、私の趣味のページです。落書き、メモ帳、偶にはまじめな話、なんでもありのコーナーです。トレーディングの合間にお立ちよりいただければ幸いです。ご感想、ご要望等はこちらまで・・・

留学記

9/15/06(FRI) (1)
 留学(1)
 今週から、「留学」と題して私の青春時代の冒険談をお話ししていこうと思います。 しばらく前のことですが、テレビで何とかという二人組みが、寝袋に小さなバッグ一つで日本からヨーロッパへの旅に出て、途中いろいろなことを経験しながらイギリスのロンドンにたどり着くという番組がありましたが、「向こうは二人プラステレビ局のスタッフ、俺はまったく一人。俺の方がずっとすごいぞ!」いつか留学記としてまとめてたいと思っていましたので、この紙面をお借りしたいと思います。
 私の留学行きのきっかけとなったのは高校時代の友人との飲み会でした。彼は、ちょうど一年間のアメリカ留学から帰ってきたばかりで、私も行けるものなら是非行ってみたいと思っていましたので根掘り葉掘り聞きだしたところ、ネックとなっていた費用が思ったほどではないことがわかりました。一年間の生活費と往復の交通費をあわせると約百万円、もちろん少ない金額ではありませんでしたがアルバイトで何とか稼げると思い、その日に決断、早速準備に取り掛かりました。準備期間は約一年、アルバイト漬けの日々が始まりました。
(to be continued)

9/18/06(MON) (2)
 留学(2)
 人は、意識するしないに拘らず、知識と経験とDNAから物事を判断する為の価値観をつくり、自分の人生の座標軸として生きていくものです。DNAは如何ともし難いのですが、知識と経験はその人の生き方、考え方次第で深くも浅くもなります。質の良い知識や経験はその人の哲学に直接影響を与えます。百科事典を紐解くと、ありとあらゆる知識がそこにあります。ドイツの人口は何千万人で、GDPは・・・、生活の様子は・・・、クイズに答える為の知識だったら、これで良いのですが生きた知識ではありません。  私が留学を思い立った原点がこの”生きた知識、経験”だったのです。その国に行って、その国の言葉を話し、その国の人と接することが生きた経験となり自分にとって血となり肉となると考えたわけです。もちろん聖人君主ならぬ私には、ドイツ人のかわいい女の子とライン河畔でのデートとか、美味いビールを飲みたいと云う世俗的な欲求の方も十二分に持ち合わせていました。
(to be continued)

9/20/06(WED) (3)
 留学(3)
 1969年は、当時の大学生生活を送った我々にとって忘れられない年でした。日本全国、いや世界中で大学紛争が起こり大学の機能は全てマヒ、授業はレポートの提出に振り返られました。なかでも東大の安田講堂にたてこもった全共闘派の学生は長期にわたって機動隊と激しくやりあい、東京大学史上初めて入学試験がおこなえないと云う事態に陥りました。学生は立て看板とバリケードでロックアウト、学校内に入ることすらままならぬ状態が世界中の大学で起きたわけです。我が校も同じようような状況に置かれたました。こう言っては当時の真面目な学生に「不謹慎」の謗りを免れないのですが、アルバイトに精を出さなければならない私にとっては好都合の状況が生まれたわけです。とりあえず、夏休みまでは新聞配達か家庭教師くらいかなと思っていたのですが、学校がこのような状況となっては話しは別、早速、なるべく楽でたくさんお金が稼げるアルバイト探しに奔走しました。先ず10ヶ月で50万円を目標としました。私の大学の授業料が月千円、卒業して東京銀行に入社した時の初任給が3万5千円でしたので、月に5万円稼ぐのがいかにたいへんか想像がつくと思います。それがあったのです。それも月に10万円ちょっと貰える所が・・・・・。
(to be continued)

9/22/06(FRI) (4)
 留学(4)
 金のなる木は新聞社でした。当時、私の兄は新聞社に勤めており、その伝で探し当てた新聞を印刷する仕事です。場所は有楽町数寄屋橋の朝日新聞の東京本社です(現在のプランタン付近)。今では近代化されてコンピューターベースで印刷されているのですが、1969年当時は、鉛版と云って鉛でできたとても重い筒状の物に活字が彫られていて、それを回転させて新聞を刷っていました。これを輪転機といい昔の白黒のニュース映画に良く出てくる代物です。輪転機で刷られた新聞はベルトコンベア-にのって出口で吐き出されるのですが、この出口には二人の人間が待ち構えていて交互に50部ずつ取っていきます。そばには別の係りがいて、その50部を梱包していきます。このベルトコンベアーの出口が私の職場でした。新聞社は一日に2回(朝刊と夕刊)、新聞をするわけですが、私はもちろん歩合のいい朝刊、つまり夜勤です。東京本社の受け持ち区域は、北は青森から南は神奈川、山梨辺りまでで、青森版の印刷は夕方の6-7時頃から始まり、最後は都内版で朝の4時頃に終わります。つまり、私の勤務時間は夕方6時から朝の4時まで、勤務が終わると最上階の大浴場で汗を流して仮眠室で寝ると云う生活です。起きると、だいたい午後の2-3時、会社の食堂で朝飯(?)を食べ、銀ブラしたり本を読んだりするともう次の朝刊の印刷が始まります。この生活を約3ヶ月つづけて、36万円稼ぐことができました。
(to be continued)

9/27/06(WED) (5)
 留学(5)
 新聞社のアルバイトは、たいへん疲れる仕事でしたが同時に有意義な人生勉強の3ヶ月でもありました。職場には朝日新聞社の正社員の方以外に、たくさんのアルバイトの方達が働いていて、皆さん、今で云う”フリーター”でした。殆どが年上で、画家や小説家の卵、冒険家まがいの人、なぞの人、とにかくいろいろな人がいました。私は、普通のサラリーマンの家庭に育ちましたので、学校を卒業して、一流企業に就職が既定路線だったので、ここでの経験はとにかく新鮮でした。世の中にはいろいろな人、いろいろな生き方があるものだと感心させられることばかりでした。今思うと、学校で授業を受けるよりはるかに有意義な時間を過ごせたのではないか思っています。
 余談ですが、ちょうどこの頃、アポロ11号が月面に着陸しました。アポロ11号のアームストロング船長は、1969年7月20日、月面に最初の一歩を踏み出し『この一人の人間の小さな一歩は、人類にとって巨大な飛躍である。』と言ったのは有名ですね。皆さん、仕事そっちのけでテレビに食い入るように見つめていたのが印象的でした。
 こうしてめでたく36万円も稼ぐことができたので、あとは家庭教師やらなんやらで、
ほぼ資金の目途が立ちました。次のステップは、どこの国、どこの大学に行くかです。
(to be continued)

10/3/06(TUE) (6)
 留学(6)
 どこの国、どこの大学に行くか? の選択基準として最優先したのが資金面です。もともと貧乏留学ですから安いにこしたことはありません。次に語学、私の第2語学はドイツ語でしたので英語圏かドイツ語圏、次に専門分野、専攻が哲学でしたので、この方面で評価の高い学校。この三つの条件から、米国、英国、ドイツの3カ国を候補とし、大学の先生に相談して、いくつかの大学を挙げていただきました。その中から10校ほどに絞り、入学要綱を送ってもらうことにしました。私の手紙に対する大学の反応はさまざまで、返事の来ない学校、親切に生活情報までつけてくれる学校等いろいろでしたが、返事をいただいた中で、親切且つ生活費の安いのがドイツ、この中から選ぶことに決定、ボン大学、ハイデルベルク大学、ベルリン大学の3校により詳しい資料を請求し、結局一番生活費が安かったボン大学に決めました。
 私の大学のドイツ語の教授であるグライル先生にはたいへんお世話になりました。グライル先生は、戦前から日本にお住まいで、ドイツの大学やドイツ大使館にも顔が広かったのでいろいろご紹介してくださりました。あまり見栄えのよくない(「優」の数がかなり少ない)成績証明書を添付して、正式な入学願書を送ってから毎日何も手につかず郵便受けばかり気にする毎日でしたが3週間後にやっと正式な入学許可書が到着、この日は人生最良の日でした。気持ちもウキウキで、再び資金稼ぎの日々が始まりました。
(to be continued)

10/6/06(FRI) (7)
 留学(7)
 翌年春の出発までは、アルバイトとドイツ語の勉強に励みました。またグライル先生に頼み込んで教えを乞うことにしました。先生は、戦前から日本に住んでいるだけあって、日本語ぺらぺら、漢字まで読めるという方で、顔は鬼みたいでしたが優しく教えてくださいました。ドイツ語というのはほとんどローマ字読みをすればよく簡単そうに見えたのですがいざやってみるとなかなか難しくかなり苦労したのを覚えています。
 秋になって、初めて両親に私の計画を打ち明けました。私は小学校のころから、なんでも自分で決めて、勝手にやってしまうという子だったので、両親も、私が何日も家に帰らなかったり、かなり不規則な生活を送っていたので心配だったようです。話しを聞いて、びっくりしていましたが、それでも多少の援助を約束してくれました。親に話したことで兄弟にも話しが広がり、独身で、働いていた二人の兄貴からも援助が・・・・、これで資金の心配はほぼなくなりました。
(to be continued)

10/10/06(TUE) (8)
 留学(8)
 正月も明け、渡航の準備に取り掛かりました。偶々、私の叔父が国鉄(当時はJRではない)のそこそこの地位にあったので、旅行会社を紹介してもらい、手続き一切の面倒を見てもらいました。私には二つのチョイスがあり、船+鉄道か飛行機、飛行機の方は値段が高く、たしか片道、羽田(成田はまだない)-フランクフルトで20万円以上もしたのです。船の方は、所謂シベリア経由と云うルートで、先ず横浜から船に乗って、ソ連のナホトカ、ナホトカ-ハバロフスク(汽車)、ハバロフスク-モスクワ(汽車)、モスクワ-ベルリン(汽車)、全行程2週間弱で途中の宿泊、食事付きで12万円です。私は当然、安い船の方に決めました。
 渡航の為のビザ、外貨(ドル)の取得等は、留学という大義名分が大きくものを言って
問題なしだったのですが、出発の日まで一ヶ月という所でボン大学から手紙が・・・、入学試験の日程の知らせだったのですが、なんと試験日が私のボン到着予定の日だったのです。大学がどこにあるかも知らない私が試験を受けるのはとうてい無理、かといって渡航の日程を早めるわけにもいかず途方に暮れましたが生来の楽観主義、なんとかなると覚悟を決め、予定通りにいくことに決めました。後からわかったことですが、この入学試験がかなり難関、当時の私のドイツ語の実力ではとても無理でした。
(to be continued)

10/13/06(FRI) (9)
 留学(9)
 出発の日は3月の第一週と決まりました。旅行用の大き目のスーツケース、勉強道具、衣類、薬等日用品を揃え出発の日を待ちました。興奮して、よく眠れない日が続きましたが、不思議と不安はありませんでした。
 出発の日は、朝5時起床、船の出港が10時だったので、二時間前に横浜港に着くつもりで家を6時に出ました。順調に横浜到着、横浜港では母親、兄弟、大学、高校の友人達総勢20人くらいが見送りに来ていて感激しました。明治生まれの母親は、ただオロオロして、”身体に気をつけるんだよ”ばかり言って、目に涙を溜めていました。見送りの皆と別れの挨拶を済ませ、出国手続き、いよいよナホトカ号に乗船、ここからは外国です。荷物を所定の場所におろし、私はデッキに向かいました。デッキで買った七色のテープで出航です。10本ほどのテープを見送りの皆がいる辺りに投げると、あとは船の出るのを待つだけ、テープがぴんと張ると、相手の気持ちが伝わってくるようでした。飛行機の別れは一瞬で終わりますが、船の別れはテープも手伝って少しずつ少しずつ過ぎてゆきます。今では経験したくても経験できませんが、ほんとうに風情があって良いものです。難を言えば、テープがちぎれる時、ほんとうに繋がりが切れてしまうようで寂しい気がします。
(to be continued)

10/17/06(TUE) (10)
 留学(10)
 ナホトカ号はゆっくりと横浜港を出航、東京湾を南下、左に鋸山、右に横須賀を見ながら房総半島を左に旋回して行きます。その後、本州沿いに北上、すぐ手の届く所に日本はあるのですが船はソ連領、日本を離れたら自分一人だけが頼りと心を引き締めて日本の領土を眺めていました。東京湾を出ると、船は、一路黒潮に乗って千葉県(私の生まれたところです)を左手に北上、北海道と本州の間で西に航路を取り、津軽海峡を経てナホトカに向かいます。
 1970年代に入ると、日本経済にも余裕が出てきたせいか私のような若者達が少しずつ海外を目指すようになりました。そこで静かなブームとなったのがこのシベリヤ経由の旅でした。このシベリヤ経由の旅はソ連の国有旅行社”インツーリスト”が主催していて時間は少々かかるが安価でヨーロッパに行けるということでかなり人気を博していました。最終目的地は、ヘルシンキ、ベルリン、ウイーンの三都市、モスクワまでは皆一緒です。私の乗ったナホトカ号にも4-5人くらい同年代の若者がいて、私以外は旅行者、大きなリュックに寝袋をもってジーンズのスタイル、すぐ親しくなってお互いの目的やら何やら夜も寝ないで語り合ったことを覚えています。折りしも、世界中が学生運動の嵐に揺れていて話すテーマにはこと欠かず、皆、大人ぶって飲めないソ連製ウオッカあおりながら熱っぽく、初めての外国に夢をはせていました。
(to be continued)

10/20/06(FRI) (11)
 留学(11)
 いよいよナホトカです。初めての外国の土、それも冷戦真っ只中のソ連、やはり緊張しました。ナホトカはソ連太平洋艦隊の母港、重要な軍事拠点です。港には船体がグレーで彩られた軍艦らしき船が停泊していて不気味な様相を呈していました。下船前の注意事項として、写真を撮ることは不可でしたがカメラのファインダーを見ないで一枚だけ写しました。上陸すると子供達が、手に手に薄い金属でできたマルクスやレーニンのバッチをかざして寄ってきて、チョコレートやガムとのバーター取引を要求してきます。女性はパンティーストッキングが欲しかったようです。日本の古いニュース映画見た戦争直後の光景が浮かんできました。東西の一方の雄「ソ連」の第一印象は、それほど芳しいものではありませんでした。
 上陸すると、全員バスに乗り込み、ちょっとした名所めぐり、案内はインツーリストのガイドさんです。何を見学したのかぜんぜん覚えていませんが、美人のガイドさんだけは良く覚えています。彼女の名前は”ナタ−シャ”、ナホトカ大学で日本語を専攻している学生でした。ぬけるような白い肌、聡明で愛くるしい眼差し、まるで北欧の妖精を思わせるようなナタ−シャは直ぐに皆の人気者になり、私も記念写真と称してドキドキしながら肩にふれたのを思い出します。
(to be continued)

10/24/06(TUE) (12)
 留学(12)
 ナホトカでの観光がすむと、いよいよシベリヤ鉄道でモスクワに向かいます。余談ですが、私の大好きな与謝野晶子(私の娘の名前も晶子です)も明治45年5月に夫鉄幹を追って、シベリヤ鉄道でヨーロッパ、パリに出発しています。モスクワまで一週間と少し、列車は北に進路をとって、まずはハバロフスクに向かいます。寝台車は4人部屋、他の3人も横浜港からの仲間です。時間が有り余ることは分かっていましたので、ドイツ語の本、専門の哲学書、推理小説(これが一番お世話になりました)と取り揃え長期戦に備えました。ソニーのPSPでもあればゲームをやりまくっていたでしょうか。
 車窓からの景色は荒涼とした原野、与謝野晶子なら和歌でも詠むところですが、文才の無い私にとっては退屈以外の何者でもなく、すぐに睡魔が襲います。楽しみは、やはり食事、檻に入れられたブロイラー状態でも時間がくるとおなかがすいてくるから不思議です。メニューは良く覚えていませんが、ボルシチ風のスープ、黒パン、たらの燻製、これがほぼ一週間続きました。おかしかったのがロシアンティー、紅茶にジャムを入れて飲むアレです。ジャムを入れても砂糖を入れてもいいんですが、付いてきた角砂糖が石のように堅くて紅茶に溶けてくれないんです。あまりに堅いので歯で割って入れようとしたのですが、逆に歯のほうがかけそうになったので止めました。
(to be continued)

10/26/06(THU) (13)
 留学(13)
 汽車の中で、もう一つ忘れられないことがあります。尾篭な話しで恐縮だが、人間、よほどの便秘症で無い限り一日に一度(大きい方)はトイレに厄介になるわけで、これだけは避けて通れません。通常は朝ご飯の後、ご厄介になるわけだが、問題は”事”が終わった後の尻を拭くための紙である。色は昔のわら半紙、上品に云えばベージュ、紙質がまるで新聞紙、クリネックスの肌にやさしいトイレットペーパーで育った小生(真偽のほどは???)には、ロシアンティーの砂糖同様固すぎた。拭いた後がなんとも云えず不快な感じ、かといって拭かないわけにもいかず往生したのを覚えている。
 ブロイラー状態の毎日だが、汽車はだまっていてもモスクワに向かって着実に進んでくれる。車窓は寒々として色なく、ただ白樺と雪の白だけが目立った。68年の「プラハの春」を弾圧したワルシャワ条約機構軍の戦車の映像が時折頭をよぎる。今思うと、ソルジェニーツィンの”強制収容所”もこんな所にあったのではと思う。
 戦後シベリアの抑留されてお亡くなりになった方がに黙祷。
(to be continued)

10/31/06(TUE) (14)
 留学(14)
 ウラル山脈を越えるとヨーロッパ。ウラル山脈は、東ヨーロッパの平原と西シベリア低地の境にあって南北2000kmに及ぶ低い山脈で、アジアとヨーロッパの実質的な境界となっている。余談になるが、フィンランドに端を発し、ウラル山脈を南下、切れたところで東に一直線、モンゴル、朝鮮半島を経て日本に到達するこの線上の国々の人々が話す言語をウラルーアルタイ語属と云う。つまり、フィンランド語と日本語は親戚同志なのである。雑学の知識も偶には役に立つと、五感に加え六感まで総動員してアジアとヨーロッパの境界線を感じようとがんばったが、よくわからないまま通り過ぎてしまった。
 ウラル山脈を越えると東ヨーロッパ、周りの景色にも変化が見られ、時折集落らしきものが見え始めた。長い退屈なシベリア鉄道の旅も終わりに近づき、いよいよヨーロッパ、気持ちが高ぶって今度は眠れなくなってしまった。いっしょに横浜を発った仲間ともお別れ、他の仲間は旅行者なのでモスクワからヘルシンキかウイーンに向かうので、ベルリン行きは私一人、ただただ不安でしかたがありませんでした。
 ついに、社会主義国家(今となっては「死語」に近い)の牙城、モスクワに到着です。
(to be continued)

11/2/06(THU) (15)
 留学(15)
 ついにモスクワに到着しました。長い間汽車に揺られたせいで地上に降りても身体が揺れているような感覚が収まらず変な気分でした。モスクワ駅からはバスで宿舎のウクライナホテルへ、東京と比べると、通りに人影は少なく寂しい、活気のない町という印象でした。ホテルは、所謂スタンダードクラス、「ばかでかい」という感じがぴったりで、我々はちょうど鯨に飲まれるピノキオと感じでした。部屋に通されると大きなダブルベッドがあり、バスルームも広く簡素な装飾で清潔感だけは文句のつけようがありませんでした。廊下を歩いても、レストランに行っても、お客は少なく若い日本人の貸しきり状態で、これで企業としてやっていけるのか人さまのことながら心配になりました。
 夜は、早速一人で探検に、徒歩でホテルを出るとモスクワ川に沿って散歩。今、思うとたいへん危険な行動だったようです。おなかが空いてきたので、途中で見つけたセルフサービスの店に入りサンドイッチと飲み物を買って食べたのですが、どうも普通の観光客がくるお店ではなかったようで皆からじろじろ見られ、居心地が悪くなり食べるとすぐに退散しました。帰りは道に迷って、たまたま通りかかったかなり立派なホテルの前からタクシーに乗ったのですが、運転手に話し掛けられ往生しました。ロシア語はぜんぜんわからなかったのですが、身振りから判断すると私の腕時計を譲って欲しいらしく、盛んに自分の財布と、私の時計を交互に指差していました。私のシチズンの1000円の質流れの時計が欲しいなんて酔狂な人もいるものだと思いましたが、やはり基本的な生活物資が不足していたという国情をあらわしていたのだでしょう。
(to be continued)

11/7/06(TUE) (16)
 留学(16)・・・一人旅(1)
 モスクワは一泊だけ、次の日には、また汽車に乗ってドイツ、ベルリンに向かうことになります。ここからはほんとの一人旅、不安で眠れず2−3時間うとうとしただけでした。眠い目を擦りながら起床、シャワー、洗面を済ませて朝食、財布、パスポートを確認して「いざ出陣」という感じで部屋を出ました。重いトランクを引き摺りながら(安いトランクなのでキャスターなし)エレヴェーターホールまで長い廊下を歩いていくと、後ろから小錦みたいな体格のおばちゃんが追いかけてくるではありませんか。「俺も、これで強制収容所行きか」と観念して待っていると、手に割れたガラスのコップを持ってロシア語まくしたててきます。ロシア語はまるでわかりませんでしたが、何を言っているのか予想はつきました。実は、朝の洗面の時にうがい用のガラスのコップを落として割ってしまったのです。なんの変哲もないただのコップ、私は一応後始末をしてごみ箱に捨てて出てきたのですが、どうやらそのことのようでした。念のため一階のインツーリストの通訳の方に確認したところ弁償しなければいけないとのこと、「こんなどこにでもあるコップ一つで弁償とは」と心の中で罵りながら、ソ連の台所事情を垣間見た気がしました。汽車に乗り遅れると困るので、言われたとおりに払って(たしか1−2ドル)、チェックアウト、ホテルの玄関では、約二週間弱をいっしょに過ごした仲間が見送ってくれてボンでの再会を約して、タクシーで駅へと向かいました。
 ここからが苦難の連続でボンへの道のりはほんとうに長ーーーいものとなりました。
(to be continued)

11/10/06(FRI) (17)
 留学(17)・・・一人旅(2)
 タクシーを奮発したおかげで、モスクワの駅には余裕を持って到着、ベルリン行きの列車もすぐ見つかりました。ここで問題が発生しました。ベルリンまでは一昼夜(くらいだったと思いますが自信なし)、この間の食料を調達しなければならなかったのですが、手持ちのお金は最後のタクシーの支払いでなくなっていたのです。ロシアの外為法では、一度ルーブルに両替すると元に戻すことはできなかったので、貧乏旅行の辛さで私は最小限しかルーブルに両替しませんでしたので、ここで手持ちのルーブルが尽きてしまったわけです。両替所の場所はわからないし、列車の出発時刻は迫るしで結局何も買えず、一昼夜くらいなら何も食わなくても死にはしないと高をくくって列車に乗り込みました。同じコンパートメントに乗り合わせたのはワルシャワに行くロシア人の大家族、二つのコンパートメントを占領していました。きっと彼らは、私をアジアのかわいそうな難民の子供と思ったに違いありません。私は、本読んだり外の景色を見たり、それに飽きてくると居眠りです。午前中の早い時間にモスクワを出ていますので、だんだん腹が空いてきます。そのうちに夕方になり、ロシアチームの夕食が始まりました。寝てるふりをして薄目を開けて観察するとメニューは、黒パンに鱈の燻製、ボルシチみたいな茶色のスープ、飲み物はウォッカです。ほんとうに美味しそうにみえて、おなかが鳴り出しました。
(to be continued)

11/14/06(TUE) (18)
 留学(18)・・・一人旅(3)
 腹が減ってくると人間寂しくなってきます。それでなくても心細い状況に置かれている私は、時間が早く過ぎるのを祈るばかりでした。無理に寝ようと目を閉じても黒パンがちらついてダメ、こんな私を哀れんでか、ロシア人家族の母親らしき人が寝ている私の肩を叩いて黒パンと鱈の燻製を差し出してくれました。ロシア語はまったくわからない私でしたが「スパシーバ」(ありがとう)だけは何度も繰り返して御礼を言いました。ただ寝て本を読んでいるだけの「難民の子供」(私)を見て、彼らは私を貧乏だけど真面目な苦学生(半分あたりで半分外れ)と思ったのに相違ありません。コミュニケーションという人間的な行為には言語というものは必須ではなかったようです。その後は、何とはなしに打ち解けた感じになり、酒盛りまで付き合いましたが、ストレートのウォッカがこんなに強いお酒であることは、この時初めて知りました。とにかく、この親切なロシア人家族に感謝しながら朝まで熟睡しました。
(to be continued)

11/17/06(FRI) (19)
 留学(19)・・・一人旅(4)
 夜が明けると朝食です(頭の中は食べることだけ)。「母親」がにこにこしながら黒パンと鱈の燻製、それに紅茶みたいな飲み物を持ってきてくれました。こうなると、もう家族みたいな気がしてきて楽しい旅行気分、会話は専ら筆談(といっても怪しげなアルファベットを使った筆談ですが)、名前やら年齢やら、お決まりの身元調査です。ただ、相手の数が多いのでとても覚えきれませんでした。そうこうする内に列車はワルシャワに到着、ここでお別れです。別れ際に「母親」は、「身体に気をつけて、しっかり勉強するのよ」(と言っているように聞こえた)と励ましてくれて、例のお決まりメニューをワンセット、プレゼントしてくれました。眼から熱いものがこぼれてきました。これであと一食分は確保できましたがベルリンまではまだ遠い道のりです。「また誰か親切な人が乗ってこないかなー」などと見栄も外聞もなく、淡い希望的観測を抱いて興味津々で待っていると、今度は背の高い、いかにも喧嘩の強そうな黒人が乗ってきました。幸運なことに、彼は英語が話せたのでなんとか意志の疎通には困りませんでした。彼は、アフリカ(たしかガーナ)の出身で、東ベルリンのベルリン自由大学で勉強する医学生で、ベルリンの自宅に帰るところでした。この彼が、深夜のベルリンで私のために八面六臂の大活躍をしてくれることになります。
(to be continued)

11/21/06(FRI)
 留学記(20)・・・ 一人旅(5)
 ロシア人の大家族に代わって、今度はガーナ人にお世話になりことになりました(もちろん食事の話しです)。彼のメニューは赤ワインと黒パン、それにソーセージです。英語で意志の疎通はできていましたので、今度はわりとスムーズに空腹を満たすことができました。今考えると、相当な図々しさです。まあ、若さがなせるわざと云うか、とにかく必死でした。
 私の必死の英会話とは逆に、車窓は、のんびりとした田園風景がひろがり、牧場には牛さんたちが気持ちよさそうに草を食んでいました。ガーナ人の彼は国費留学生、国では相当に優秀であったに違いありません。歳は私より5歳上で、東ドイツに留学しているだけに思想的には左翼系だったのですが、親切で、知識も豊富、ヨーロッパのいろいろなことを教えてくれました。そうこうしているうちに日が暮れてきて、列車はベルリンに近づき ます。列車は、目的地のボンの隣のケルンまで行くので、このまま乗ってケルンで乗り換えればと暢気に構えて、彼と別れの挨拶などをして再会を約しました。私の持っている切符は東ベルリンまで、車掌がきたら乗り越し料金を払ってボンまでの切符を買えばよいと簡単に考えていました。ところが・・・・
(to be continued)

11/28/06(TUE)
 留学記(21)・・・ 一人旅(6)
 東ベルリンの駅も近づいたところで車掌が回ってきたので早速乗り越しの切符を買おうと英語で話しかけたところ(このころの私のドイツ語はとても実用に耐えるものではなかった)帰ってくるのはドイツ語ばかり、これは無理と思い、例のガーナ君に助けを求めた。ガーナ君曰く、私の切符は東ベルリンまでなので東ベルリンで降りなければならない、とのこと、いろいろ交渉してもの暖簾に腕押しで埒があかず結局降りる羽目になってしまった。時間は夜も遅くなっていて、もちろんホームには誰もいない。途方に暮れるとはこのことで、さすがの私も頭の中は真っ白、パニックでした。そこへ正義の味方じゃあなくて地獄に仏、ガーナ君が登場、彼は私のことを心配して切符のことや次の列車のことを調べにいってくれたのです。彼によると、打開策として二通り、一つは朝までここで次の列車を待つ、もう一つは西ベルリン行きの電車はまだ動いているのでとりあえず西ベルリンまで行けば西側ですからいろいろなチョイスがあるとのことでした。この誰もいない墓場のような場所で一晩過ごすなんてとても考えられません。私は迷わず西ベルリン行きを選びました。ガーナ君は私にドルキャッシュの有無を尋ねました。いずれにしても切符を買わなければならず、東ドイツマルクが必要との事、私は騙されたと思って大事なドル紙幣をガーナ君に渡しました。
(to be continued)

12/1/06(FRI)
 留学記(22)・・・ 一人旅(7)
 米国とソ連を夫々の盟主とする東西両陣営の冷戦の真っ只中、時代的にも、地理的にも正に真っ只中の東ベルリンの駅に、一人取り残されてしまいました。私は、わりと人を信じやすいタイプなのですが、さすがにこの時は「ガーナ君」を100%信じることができませんでした。恐怖と焦燥感が私を支配していました。20分くらい経ったでしょうか、ガーナ君がやっと戻ってきてくれました。彼は、黒人なのであまり目立たない(周りが暗いから)のですが、歯だけは真っ白ですぐわかりました。彼は、わざわざドルの現金を闇のマーケットで東ドイツマルクに換えて切符を手配してくれたのです。当時、東ドイツマルクは公的には対ドル、対西ドイツマルク(一対一)は固定相場で実力とはかけ離れたレート(東ドイツマルクが高すぎる)を使っていました。公的市場でドルを換金すると、かなり不利なレートとなるので、彼は、ブラックマーケットで交換してくれたわけです。もちろん、見つかれば手が後ろに回ります。私のために危険を犯してくれたわけです。私は、何度も握手してお礼を連発しました。
 私は、ガーナ君に連れられて西ベルリン行きの電車のホームへ行くのですが、その前にもう一つ試練が待っていました。
(to be continued)

12/5/06(TUE)
 留学記(23)・・・ 一人旅(8)
 ここで少し、当時のベルリンを取り巻く政治的社会的な情勢を説明しておきたいと思います。二次大戦後ドイツは米英仏ソに分割統治されていて、米英仏の占領地は西ドイツ、ソ連の占領地が東ドイツになったことはご高承のとおりですが、ベルリンは首都であった関係もあって東ドイツのなかにあったのですが、やはり米英仏ソに分割されていて少し特殊な状況にありました。米英仏占領地は西ベルリンとなり、ソ連占領地は東ベルリンと呼ばれるようになりました。その後東西の緊張が高まり、西ベルリンの経済的優位性が明らかになり、東ベルリンから人口の流出が顕著になったことが「壁」を作ることになった最大の理由です。この「壁」によって東西ベルリンの交流はストップ、東側は西ベルリンに行く人々を厳重にチェックしたのです。1961年8月に建設がは始まった「壁」は徐々に強固なものに整えられ、西ベルリン全体を囲み、全長約165キロにも及びました。それでも、東側から多くの人々が越境を試み、多くの人が銃に倒れました。
 私が、通過した1970年はこうした政治的緊張の真っ只中で、少しでも疑わしい人物はドイツ人、外国人を問わず厳重に調べられました。
(to be continued)

12/8/06(FRI)
 留学記(24)・・・ 一人旅(9)
 西ベルリンが「壁」によって東側の陸の孤島であったことはおわかりいただけと思います。さて私ですが、ガーナ君に連れられて西ベルリン行きの電車が出るホームに行ったのですが、かなり遅い時間にも拘らず多くの人たちが列を作って並んでいました。正確に云えば、私は、西ベルリン行きの電車が出るホームに入る為の検問所に来たのです。このホームに入ってさえしまえば、あとは電車に乗るだけで西ベルリンに脱出できるわけですから東側のチェックも幾重にもわたり厳重を極めました。私の順番がきました。先ずお決まりのパスポート、単に本人確認だけでなくかなり分厚いブラックリストとの照合、「右向け」とか「左向け」とか言われましたが、(パスポートは正面写真だけだから右半分や左半分の私の顔を見ても意味がないと思いつつ)だまって言う通りにするのが得策と何でも言われたとおりにしました。その次はトランクの中身の検査です。一つ一つ全て取り出し
ます。小さな箱があればその箱を開けてチェック、洗面道具セットも開けます。私のパンツまで取り出したときにはさすがに笑ってしまいました(新品もパンツなのでよかった)。でも検査官は真剣そのもの、やっとOKが出たのですが、次の場所でまた検査です。結局1時間以上かかって検問所をくぐり抜けやっとホームに到着しました。この間、ガーナ君は、通訳代わりにずっと付き添ってくれました。何度も何度もお礼を言って、ここでお別れ、ほんとうに涙が出てきて止りませんでした。
(to be continued)

12/12/06(TUE)
 留学記(25)・・・ 一人旅(10)
 無事、西ベルリンに到着、銀座に似たネオンが懐かしかった。学生運動の真っ只中で、大学の1、2年を過ごした私の心の中には、東側ー社会主義に対して一定の理解を持っていたのですが東ベルンの暗さ、怖さ、モスクワの陰鬱さ、貧しさを目の当たりにして、社会主義に対する疑念が沸々と沸き起こるのを禁じ得ませんでした。
 次の日、銀行でドルを西ドイツマルクに換え、ボン行きの切符を買い、午後のケルン行きの汽車に乗りました。この10日余りの旅で、日本での20年間以上の経験をしたような気がしました。 今度はお金もあるし、食料の心配もなし、コンパートメント型の汽車の乗り心地は最高でした。今でも、時々ドイツに行くと必ず一回は汽車の旅をすることにしてます。東ドイツの国境を過ぎ、ついに西ドイツ、教書に出ていた町の名前がすぐ目の前を通り過ぎます。ルール工業地帯で有名な、エッセン、ドルトムント、デュッセルドルフを過ぎるとケルンです。最高峰のゴシック建築と云われるドームがケルンの駅のすぐ側にありました。
 ここで、少しドイツの駅について説明、小さな駅は別としドイツの大きな駅はみんな行き止まりになっています。上りでも、下りでもいったん行き止まりの駅に入り、同じ線路を出て行き、少し走ってから所定の方向に向かうわけです。日本では東京駅でも、田舎の小さな駅でも列車は右(または左)から入って左に(右に)抜けます。慣れない私はボン(Bonn)の文字だけを頼りに乗り換えたのですが逆方向の列車に乗ってしまいました。さっき見たような駅が出てくるのでおかしいと思い、地図でチェックしたらボンとは正反対の方向に向かっていました。次の駅ですぐ降り、駅員の人に何度も確認してまた乗り換え、やっとのことでボンに到着です(また涙が出てきちゃいました)。
(to be continued)

 続きはこちらです。



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