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閑話休題(1)−2


このページは、私の趣味のページです。落書き、メモ帳、偶にはまじめな話、なんでもありのコーナーです。トレーディングの合間にお立ちよりいただければ幸いです。ご感想、ご要望等はこちらまで・・・

留学記の続き

12/20/06(WED)
 留学記(26)・・・ ボン大学(1)
 ボンの駅は、これがヨーロッパ最大規模の経済力を誇る西ドイツの首都(当時)かな?と疑いたくなるような小さな駅でした。私の生まれた千葉県松戸市の国鉄の駅のほうがよっぽど活気がありました(建物はボロだったが)。
 入学試験の日程の通知が遅れてきたために、入学試験日と到着した日が同じ日になってしまったことは前にお話ししましたが、この日は入学試験日。大学がどこにあるかもわからないで入学試験を受けようがありません。この半年後に入学試験を受けたのですが、これがかなりの難関で、仮にこの日に試験を受けたとしても100%確実に落ちたと思います。
 とりあえず、ボンの市内地図を買い求め大学の場所をチェックしたのですが、これがまたとても広い、駅の小ささと好対照でした。私は、指定された外人局まで、重いトランクを引き摺って(布製で安いからキャスターがついてない)約20分くらい歩いて外人局に到着。市電に乗ればよかったのですが、乗り方もわからず、方向違いに乗ったらまた面倒なことになるってことで歩いたのですが、到着した時にはヘトヘトで一日のエネルギーを使い果たしたという気がしました。 
(to be continued)

12/22/06(FRI)
 留学記(27)・・・ ボン大学(2)
 やっとのことで、外人局(外国からの学生のめんどうを見る部署)に到着、ちょっと年増の優しそうなお姉さんが応対してくれました。ドイツ語はダメ、英語はドイツに来る途中で少し話しただけの所詮は受験英語、コミュニケーションを取るのに四苦八苦してわかったことは、正式に入学手続きをとる為には先ず下宿先を探して住居を定めること、であった。私は、遠い極東の日本から来た貧乏学生には当然学生寮に優先的に入れるものと思っていたのですが、学生寮は満杯でダメ、私の考えは甘かったわけです。外人局では、学生寮の代わりに5件ほど下宿先を紹介してくれて自分であたれとのこと、仕方なしにまた重いトランクを引き摺りながらボンの町に出て行きました。
 ドイツの良い点の一つに住所がわかり易いというのがあります。日本では、住所を知っていてもなかなかそこにたどり着けないということがよく起こりますが、ドイツでは、通りの名前があって番地番号のとおり家が並んでいるので100パーセント見つけることができます。ようやく紹介された一軒目に到着、困ったのはまた言葉でした。下宿というのは日本と同じで、一般の家で空いてる部屋を安く学生に提供するのですが、大家さんはドイツ語しか話さないわけです。コミュニケーションが取れず一軒目はアウト、日が暮れてきて大事なことに気づきました。今日の宿がないのです。今までは、ホテルか汽車で寝泊りしていたので宿の心配なんてしたことがなかったのです。私は、ユースホステルに駆け込みました。
(to be continued)

1/5/07(FRI)
 留学記(28)・・・ ボン大学(3)
 ユースホステルは、ボンの町から南の方向へバスで15分くらいの小高い丘の上にありました。こういうこともあろうかとユースの会員になっておいたのが役に立ちました。建物の大きさは日本の小さな体育館ほど、私はユースに泊まるのが初めてだったので勝手がわからず困りましたが、ペアレントの方が親切で助かりました。中は、男性用と女性用に分かれていて、それぞれ20−30くらいの鉄パイプのごっついベッドが2段に置かれていました。同宿者は、ほとんどが同世代と思われるような連中でアラブ系、インドパキスタン系が多く旅行者のようでした。かっこは所謂ヒッピースタイル、髪を伸ばし、ひげを蓄え、まるでゲリラ(ゴリラではない)のような顔をしていて内心びくびくものでした。シャワーを浴びたかったのですが荷物が心配で止めて早々にベッドに就いたのですが、ゲリラと鉄パイプベッドが刑務所(もちろん一度もごやっかいになったことはありません)を連想させ、身体はかなり疲れていたのですがなかなか寝付かれず困りました。下宿の心配、お金やパスポートの心配・・・いろいろあって朝方1−2時間まどろんだだけで夜が明けました。
 朝飯もそこそこにまた下宿探しです。せっかくここまで来て、このくらいのことでへこたれるものかと、自分を奮い立たせてバスに乗りました。
(to be continued)

1/19/07(FRI)
 留学記(29)・・・ ボン大学(4)
 この日は3軒ほど回ったのですが、全て断られました。言葉がよく通じないという問題もありましたが、極東から来た素性も何もわからない奴に部屋は貸せない、といった雰囲気で一種の人種差別みたいなことも感じられ少しショックでした。昼御飯は、ライン川が見える大学の校庭で、コーラの1リットルビンを片手に小さなパンとソーセージを食べましたが味気ないことこの上なく、頭によぎるのは悲観論ばかり。自分の夢見ていたドイツの学生生活はどこにいったのかと・・・、少しだけ涙が出てきました。
 午後も結局空振り、夕食を奮発して元気をつけなくてはと思い、ボン駅のそばのピッツエリアに入り、ピザを注文。値段は確か300-400円くらい(これでも大奮発-清水の舞台から飛び降りたつもり)で、トマトソースにタマネギとアンチョビがのったやつでほんとうに美味しかった。ピッツエリアの主人がイタリア人で、客はたまたま僕一人、たぶんそうとう落ち込んだ顔をしていたのでしょう、ドイツ語と英語とイタリア語が混じったような言葉でいろいろと元気づけてくれ、ワインまでご馳走してくれました。これで、少しは元気を取り戻したのですが、疲れていて足は重く、ユースホステルに帰るのがやっとでした。
 僕が、困ると神様が助けたくなるのでしょうか、翌日、幸運の女神が訪れることになります。
(to be continued)

1/25/07(THU)
 留学記(30)・・・ ボン大学(5)
 次の日、外人局に出頭して事情を話したのですが、外人局の優しそうなお姉さんは2−3他の物件を紹介してくれて、あとは新聞広告で探すしかないとのことでした。僕は、重い荷物を抱えて知らない町を歩き回ることに疲れてしまい、紹介してくれた物件に行く気力も無くなっていました。当面の滞在費と日本に帰る費用は手元にありましたので、このままヨーロッパを旅行して帰ろうかとも思いました。兄が心配して毎日新聞のボン支局長宛の紹介状(これを使えば何のことは無かったのですが)の存在さえ忘れるほど頭が混乱していました。
 昼飯時になったので、ソセージとパンに缶ビールを買って、大学のそばのライン河畔に近いベンチに座って食べながらいろいろ考えていました。周りから見ると、たぶんそうとうに落ち込んだ顔をしていたのだと思います。
 ここから私の強運の女神が微笑み始めます。
 私の座ったベンチの隣のベンチに2人のボン大学の女学生(残念ながらあまり美人ではない)が座り、同じようにランチをとり始めたのです。サンドイッチを頬張りながら「ちらっ」「ちらっ」と僕の方を見ていました。そのうち、一人のほうが近づいてきて、「何か困ってるの?」と聞いてくれたのです。あとからわかったことですが、彼女はその前の年に日本に短期留学をしたことがあり、日本に大変良い印象を持っていたようです。地獄に仏じゃあなくて、ヨーロッパですからキリスト様かな、とにかく藁をも縋るつもりで事情を話しました。
(to be continued)

2/2/07(FRI)
 留学記(31)・・・ ボン大学(6)
 女神の名前は、ステファニー、年は20歳(当時の私と同い年)、ボン大学では教育学を専攻してる学生で、色白(白人だから当然)ぽっちゃり型、ドイツ人にしては背が低く、美人ではないが愛嬌のある顔立ちをしていました。私は、英語、ドイツ語に日本語まで総動員して苦境を説明しました。遠い極東の国、日本からシベリヤ鉄道を使ってやっと念願のドイツに来たこと、入学許可書は持っているものの、下宿が見つからず住所不定では大学に登録できない等々、少しオーバーに話しました。すると彼女は、「自分の家に来ないか」と言うではありませんか。騙されたと思ってついて行くことにしました。「これがもし人身売買の一味で、俺がどこかに売られてしまったら、お袋は悲しむだろうな!!」などとあらぬ事を考えながら・・・・・。
 ボンの町から、チンチン電車に乗って15−20分、Alfterという小さな村に着きました。駅から歩くこと数分で彼女の家、大きな家で薬局をやっていました。あとでわかったことですが、ドイツで「薬局(アポテーケ)」というとかなり上流階級で裕福な暮らしをしていることを意味しています。珍しいお客に家族全員が集まってきて、彼女は私の苦境を説明したところ、母親(どうやらこの家のボス)が「とりあえず、この家の住所で登録して、ときを見計らって皆で下宿を探してあげよう」と衆議を纏めてくれて、私にはこの上ない結果となりました。
(to be continued)

2/9/07(FRI)
 留学記(32)・・・ ボン大学(7)
 その日から、私はマイヤー家(ステファニーの苗字)の一員となり、客用のうなぎの寝床みたいな部屋をもらって、下宿が見つかるまでは住んでいいことになりました。
 翌日、大学の外人局でマイヤー家の住所で登録を済ませ、晴れてボン大学生となることができました。親切な外人局のお姉さんも私のことを心配していたらしく、とても喜んでくれて細かな手続きから、これから学生生活まで懇切丁寧に説明してくれました。
 マイヤー家の生活は大変快適で、三食付きで家賃はタダです。マイヤー家は、お父さんとお母さん、それに姉のウーズラ(同じくボン大学生)と高校生の弟とお手伝いさんの合計6人です。食事時に全員が集まったりすると、質問の集中砲火(もちろんぜんぶドイツ語)、ステファニーやウーズラは英語が話せましたので時折助け舟を出してくれるのですが、それでもたいへんでとても自分の食べるひまが無いくらいでした。食事の時は、いつもドイツ語と英語の辞書を片手にしてテーブルにつき、皆に笑われたものでした。 結局、2ヶ月ほど世話になったのですが、ドイツ語を学ぶ、ドイツ(人)を知るという
観点からみてたいへん有意義な期間となりました。
(to be continued)

2/14/07(WED)
 留学記(33)・・・ 新学期(1)
 4月に入り、新学期が始まりました。新しい教科書、新しいノートと筆記用具、まるで小学一年生のように気分が高揚し、前日はなかなか寝つかれずに困りました。
 私達のクラス学生は、約20人弱で皆、9月の正式入学試験に向けての準備コースで、なかには何回も既に試験に落第したつわものもいてなかなか面白いクラスでした。年齢、バックグラウンドも様々で、当たり前の話しですが国際色も豊か、休み時間になると様々な言語が飛び交います。20人弱の内、約半分がアラブ系、日本人は4人(日本人は私一人だけと思っていたので、これにはびっくり)、その他に、韓国人1人、フィリピン人1人、タイ人1人、フランス人2人、米国人1人という構成でした。
 授業は、午前中は90分ずつ2コマ、朝8:30に始まり30分の休みを挟んで12:00に終わり、午後は2:30から4:00までの1コマです。授業の内容は日本の高校と同じで、午前はリーダーと文法、午後は、元新聞記者で大学の社会学の教授、ベアコフスキー先生の担当で、政治、社会、いろいろなテーマで面白い話を交え、ドイツ語を学びながらのフリーディスカッションという興味深い内容でした。初めは、ドイツ語でドイツ語を学ぶということに戸惑う部分もありましたが、慣れてくると日本語でドイツ語を学ぶよりはるかに効率がよいことに気づきました。
(to be continued)

2/23/07(FRI)
 留学記(34)・・・ 新学期(2)
 私の標準的な一日は、朝6:30に起床、朝食は7:00、この間30分で洗面、歯磨き、トイレ、身支度、7:00になると、通いのお手伝いさんが朝食開始の合図をしてくれます。家族のメンバーほぼ全員が食卓につき朝食開始、ドイツ人は朝が早く、きちっとしているなと内心感心しました。メニューは、コーヒー、小さな丸いパン(ドイツではこれが一番ポピュラー)、バターにジャム、それにソーセージやゆで卵がつきます。質素ですがなかなかの美味、特に小さな丸いパンは焼き立てで、周りがパリパリでなかがしっとりしていて香ばしく、以来私のお気に入りとなりました。
 7:45、チンチン電車でボンに向かいます。学校到着が8:15、タバコを一服して気持ちを落ち着かせ授業の開始を待ちます。一時間目は「文法」、「外国人のためのドイツ語」という題名の教科書を使って進められます。先生の名前は忘れましたが、頭が綺麗に禿げていて、非常に優しかったことだけは覚えています。授業でやっていること自体はそれほど難しくないのですが、ドイツ語の問題をドイツ語で質問されるわけですから困りました。二時間目は「リーダー」で、簡単な童話やエッセーをドイツ語で読んでいくのですが、やはり読んだ内容をいろいろ質問されるので戸惑いました。午前中の授業が終わると午後の授業まで時間がありますので、昼食を食べにAlfterに一度帰ります。午後の授業は、私の好きなベアコフスキー先生の授業です。先生は以前、新聞記者をなさっていたこともあり、話題がたいへん豊富でクラスの皆が楽しみにしていました。私のたどたどしいドイツ語にも真摯な態度で接してくださり、時には授業の後ビールをご馳走してくれたり、家に招待してくれたりもしました。
(to be continued)

3/9/07(FRI)
 留学記(35)・・・ 新学期(3)
 我々のクラスは20人足らずの小さなクラスでしたので、すぐに皆打ち解けて仲良くなっていきました。今日は、私のたいへんお世話になった李さんを紹介してみようと思います。李さんは、韓国からの給費留学生、年は50歳、お医者さんで、既に博士号を取得していてソウルでは名門の家系だそうです。きっかけは小テスト(フジテレビではない)、我々のドイツ語の進み具合を見るために一週間に一度簡単なテストがありました。その時偶々隣に座ったのが李さんでした。李さんの使っている辞書をみて驚きました、私の辞書と同じ、当時の大学生の独和辞書の定番である木村・相良独和辞典でした。李さんによると、韓国では良い辞書がなくて自分は日本語ができるので木村・相良を使っているとのこと、韓国人の対日感情というデリケートな問題があり、私なりに少し緊張していましたがこれで少し解れました。答案用紙が配られ、テスト開始、ふだん授業でやっていることばかりなので私は持ち時間の半分も掛けずに終わりました。李さんは、かなり悪戦苦闘してるようで、私の方をちらちら見るので、答案用紙をずらして李さんのカンニングのお手伝いをしてあげました。授業が終わってお礼のビールに誘われ、いろいろなことを話しました。たどたどしい日本語と、これまたたどたどしいドイツ語での会話でしたが楽しい時間を過ごしました。その後は、毎日隣に座って、授業、テストのヘルプデスク、ちょっとキムチとニンニクの匂いが気になりましたが日韓友好の為がんばりました。
(to be continued)

3/15/07(THU)
 留学記(36)・・・ 新学期(4)
 今日のお友達紹介は、UAE出身のA君(名前は忘れました)。この年から数年後の1973年に我々は、第一次オイルショックを迎えることになるわけですが、この当時から既にオイルマネーの威力は浸透しつつあったようです。我々のクラスの約半数が中近東からの留学生、その半分が所謂アラブの貴族の子弟でした。A君は、その貴族の子弟の一人で、人がよくて惣領の甚六タイプ、彼の父親が関係しているオイルの会社が日本にオイルを輸出しているとかで日本に興味を持っているらしく、私にしきりと話し掛けてくるので仲良くなりました。新学期が始まって一月くらいしてから彼に招待されて家に遊びに行ったのですが、これがびっくり。家は、今風に言えば「豪華マンション」、3LDK、メイドつき、おまけに下宿ではなく父親からのプレゼントです。人の情けに縋ってタダで居候させてもらってる私とは大違い、オイルマネーの凄さを実感しました。彼の弱点は「お勉強」でした。テストの成績はいつもビリ、居残り組も常連で、先生方もかなり困っている様子でした。私のところに助けを求めてくるのですが、彼はドイツ語がダメなのでコミュニケーションの手段がありません。それでも、ぜんぜん卑屈ににならないことろが彼の偉いところ、皆に愛された好漢でした。
(to be continued)

3/23/07(FRI)
 留学記(37)・・・ 新学期(5)
 新学期が始まって一月ちょっと、下宿の新学期相場が一段落した所でマイヤー家の皆は私の下宿探しを始めました。ほんとうは、このまま最後まで図々しく居座りたかった(なにせ、三食付きでタダですから)のですがそうもいきません。
 毎週木曜日は「お部屋貸します」の新聞広告の出る日で、朝刊を待って情報を仕込んで皆で出動、私は、お手伝いもせずに通常通り学校へ行くという無責任な下宿人を通していました。三回目の木曜日のこと、お姉さんのウズラが良い物件を探してきてくれました。学校まで徒歩7-8分で、パン屋さんの屋根裏部屋、月に85マルク(当時の換算で約¥8500)です。大家さんの名前はシュミット(シュミットもマイヤーもドイツでは掃いて捨てるほどいる)、年を召した母親と嫁さんにアストリッドという三才の可愛い女の子の家族で、私が借りることになった部屋はアストリッドが大きくなった時に使うための部屋でした。
 一週間後に引越し、マイヤー家での最後の日は姉弟達の友達も集まってビールとワインにソーセージで盛り上がり楽しい一晩となりました。
(to be continued)

3/29/07(THU)
 留学記(38) ・・・ 新学期(6)
 やっと一人の生活が始まりました。私の生まれは千葉県ですが、小さい時から大学までずっと家から通っていましたので一度も一人で生活したことがなく、大学の下宿している連中を見て密かに羨ましいと思っていました。ところが実際にやるのと周りから見ているのとは大違いです。朝起きるとすぐに朝御飯の心配、日本にいる時もAlfterの時も私がテーブルに座ると朝御飯は自動的に出てきたものでした。これを朝、昼、晩の三食、それも毎日ですからいやになります。でもお腹は空くわけですから何とかしなければなりません。次に面倒だったのが洗濯です。これは毎日する必要はなかったのですが、夜、自分の汚いパンツを手で洗うのは侘しいものです。母親のありがたみを実感しました。
 兎も角、新生活がスタート、下宿から大学まで歩いて10分、途中、ベートーベンの生家の前を通り過ぎ、生鮮食料品の市場であるマルクトプラッツを抜けて学校にたどり着きます。朝御飯を食べる時間がないので(朝寝坊してるから)、朝食は歩きながら、りんご一個と下宿のパン屋で前日に売れ残ったタダのパンで済ませていました。昼食はメンザ(学生食堂)、ジャガイモと肉類にスープがついた定食が主なメニューです。夜は学校の仲間とビールを飲みに行ったり、パスタなんかもよく食べに行っていました。
(to be continued)

4/5/07(THU)
 留学記(39) ・・・ 北極圏(1)
 6月に入ると最初の長い休み、昇天祭(フィングステン)があって大学も一週間ほど休みになります。下宿にゴロゴロしていても芸がないということでドイツ人の友人と二人で旅行を計画しました。行き先はなんと北極圏(ノルウェーの北)、僕にとって北極圏とは地図の上のほうにあって寒そうでまったくの別世界、本当に驚きました。ただ地図で見るとドイツからはそれほど遠いところではありません。
 彼の名前はハンス・ミューラー(これもドイツでは掃いて捨てるほどある名前)、ベルリン出身、ボン大学の数学科の学生で大学のパーティーで知り合いました。同い年で、父親が大戦中日独同盟の関係で日本と関係があったらしく、父親の話を聞いて日本にたいへん興味を持ったそうです。
 休暇が始まる一週間くらい前、彼の下宿で旅行の計画を話し合ったのですが、彼が驚くべきことを言い出しました。ヒッチハイクで北極圏往復をやろうと言い出したのです。当時、ドイツではお金のない学生がヒッチハイクで旅行するのは極めて普通のことであり、世間一般も、これを快く受け入れるという風潮がありました。彼も、ベルリンへの帰省にはヒッチハイクで往復しているとの事、日本人の僕にとっては正に驚天動地の話しでした。ヒッチハイクの旅というのは予定が立ちません。「どうするの?」との問いに、「行ける所まで行って、ダメなら帰ればいい」との答え、なるほどと思いました。宿は、ユースホステル、なければ寝袋で野宿、目的地はあるけれど到着できるかどうかわからない、生まれて初めてのアバウトな旅、僕はだんだんワクワクしてきました。
(to be continued)

4/13/07(FRI)
 留学記(40) ・・・ 北極圏(2)
 6月初旬の早朝、快晴、出発です。大学の門待ち合わせ、知り合いが僕達の冒険旅行の出発を祝って、ボンのアウトバーンの入り口まで車で送ってくれました。計画では、ボンーハンブルクーコペンハーゲンーストックホルムーベルゲンー北極圏というコースです。 今日の目的地はドイツ第二の大都市ハンブルク、ボンーハンブルクは400Km以上あり、電車で4時間くらいかかります(今はもっと早いと思いますが)。この距離をタダで行こうと言うのですから図々しい、人の褌で相撲をとるとはこのことです。
 ヒッチハイクは、A4判くらいの大きさの紙とマジックインキを用意することから始めます。紙にマジックではっきりと(乗せてくれる車のドライバーが良く見えるように)目的地を書きます。その紙を手で掲げて、心優しいドライバーの車を道端で待つわけです。大切なのは、ドライバーの気持ちになって考えることです。先ず、待つ位置、何処でも良いわけではありません。直線道路でドライバーがスピードを出すような場所とか曲がりくねって車が止まると危険そうな場所はNG、ベストはアウトバーンの入り口とかパーキングエリアです。アウトバーンに入る車の多くは長い距離を走る可能性が高く、うまくするれば一台で目的地まで行くことができます。
 アウトバーンの入り口について、さあ、初めてのヒッチハイクの開始です。既に先達たちが紙を胸に抱えて奮闘中でした。ヒッチハイクというのはある意味では極めて残酷で先着順ということは先ずありません。いくら待っても乗せてもらえない人がいっぱいいます。要は、クラブやバーの「綺麗どころ」といっしょで、お客(ドライバー)に気に入ってもらえなければ、何時までたっても「ご指名」はないわけです。僕達は、その辺も抜かりなくしっかりと準備しました。
(to be continued)

4/20/07(FRI)
 留学記(41) ・・・ 北極圏(3)
 先週は、ヒッチハイクの基礎を勉強しましたが、今週は応用編です。応用編のキーワードは、「身奇麗」「にこやか」「身元確実」の3つです。 当時は、ヒッピー族と呼ばれる人種が全盛で、多くの若者が憧れていました。「長髪」「ジーンズ」「ずた袋」が彼らの三種の神器で、多くのヒッチハイカーも多かれ少なかれこのスタイルでした。いつ洗ったかもわからない長髪とジーンズの赤の他人を乗せてくれるほどドライバーは甘くはありません。暗い顔をしてる奴もNGです。僕達は、この逆をいきました。とにかく不快感を与えないよう、にこやかにをモットーに・・・結果は大正解、並み居る先達を抑えて、すぐにハノーバー行きの車を捕まえることができました。 ハノーバーは、ハンブルグ行きのアウトバーンの途中にあり、距離も中間、僕達は労せずして旅程の約50%をクリアすることができました。
 キーワード最後の「身元確実」は、僕達が、ドイツ人と日本人のコンビであることをドライバーにアピールすることでした。普通彼らが僕を見ても、アジア人ということはわかりますが日本人ということまではわかりません。これは、彼らの人種的偏見の現われですが、同じアジア人でも日本人ならOK、他のアジア人は乗せたくないというわけです。戦後の奇跡的経済復興、第二次大戦の盟友等々、いろいろな理由があるでしょうが、それが現実でした。僕は、胸に日の丸、友人はドイツ国旗をつけることにしました。結果は大成功、ほとんどの場所で、僕らは先着の人たちを押しのけて車を捕まえることができました。ハノーバーからも順調で、お昼頃までにはハンブルグにつくことができました。
(to be continued)

4/27/07(FRI)
 留学記(42) ・・・ 北極圏(4)
 初日にしては、思ったよりかなり順調で、昼頃ハンブルクに着くことができたので午後は市内観光。さすがハンザ同盟の盟主らしく歴史と威厳のある町です。市内中心にはアルスター湖が市民に憩いの場を提供してくれます。市庁舎がまた素晴らしく、ハンブルクの市長は、あのエリザベス女王が来た時でさえ、市庁舎の玄関までしか出迎えしなかったという話も聞きました。ハンブルクの車のナンバープレートにも、ちょっと面白い話があります。ドイツのナンバープレートは最初に都市を表す文字がきて、次に数字が来るのですが、通常大都市は、一文字(フランクフルトならばF、ベルリンはB等)で町の規模が小さくなるに従って二文字、三文字というようなシステムになっています。ハンブルクはドイツ第二の大都市ですから当然一文字のはずですが、じつは二文字、ハンブルクのHの前にもう一つHがついてHHの2文字、最初のHはハンザ同盟のHです。ブレーメン、キールといった旧ハンザ同盟の大都市も同様に、HB、HKとなっています。ハンザ同盟のプライドは現在に至ってもまだ生きているわけです。
 その日は、ハンブルクのユースホステルに泊まり、次の目的地はデンマークの首都、コペンハーゲンです。実は、コペンハーゲンは島の中にあります。車では行けませんので船に乗らなければなりません。我々は、前代未聞の船のヒッチハイクにトライすることになりました。
(to be continued)

5/11/07(FRI)
 留学記(43) ・・・ 北極圏(5)
 次の日は早朝に起床、前代未聞の船のヒッチハイクにプットガーデンに向けて出発しました。ハンブルクからプットガーデンまでは100キロちょっと、途中、ハンブルク同様にハンザ同盟で名を馳せたリューベックを通ります。前日同様に日独ペアーは快調にリューベックを通過して午前中にプットガーデンに到着しました。ここまで来るとコペンハーゲンのある島は指呼の距離です。我々は昼食もそこそこに手分けして島に渡る船を探し始めました。大きな船は声が届かないのであきらめ、漁船、クルーザー、ヨット等にねらいを定め動き始めたのですが、陸上のように巧くはいきません。3時間くらいトライしたでしょうか、距離は短くても国境を越えるわけですから難しいはずです。ついにギブアップして小型のフェリーでデンマーク入り、初めて移動にお金を使ってしまいました。
 デンマークに入ってもヒッチハイク事情は似たりよったりで予定通り夕方にはコペンハーゲンのユースホステルに到着することができました。ドイツ語がOKなのには助かりました。ほとんど陸続きなのでそれも当然かもしれません。当時北欧三国は、”フリーセックス”の国として有名でしたのでほんの少しだけ期待していましたが何も起こらず就寝、次の目的地はスウエーデンのストックホルムです。ストックホルムでは、なかなか楽しいことが待ち受けていました。
(to be continued)

5/18/07(FRI)
 留学記(44) ・・・ 北極圏(6)
 (お詫び・・・先週次の目的地をスウエーデン、ストックホルムと書きましたがノルウエーのオスロの誤りでした。)
 というわけで、チボリ公園と人魚の町、コペンハーゲンをあとにして、オスロに出発。船のヒッチハイクは諦め、おとなしく鉄道でスウエーデンに入り、再びヒッチハイクでオスロに向かいました。デンマークとスウエーデンの間には、ロシア側のバルト海と英国側の北海をつなぐカテガット海峡がよこたわっています。このカテガット海峡を垣間見ながらオスロに向かうのですが、派手さはないが落ち着いた北欧独特の雰囲気が心を和ませてくれます。小さな湖のほとりの可愛らしい木の家、とてもあのバイキングの末裔の国とは思えません。乗せてくれた方に、このミスマッチな印象を話すと、バイキングの本質は「気はやさしくて力持ち」(これは私が勝手に日本語訳したもの)と笑って話してくれました。
 順調にオスロ到着、海洋王国ノルウエーの象徴でしょうか、町の港には大きな帆船が係留されていたのが印象的でした。町をぶらぶら散歩したあと、例によって、ユースホステルにチェックイン。この日は空いていて、お客は我々だけでした。ペアレントと話してると別のお客が到着、米国からの女の子の二人ずれでした。
 これから、ベルゲンまで4人で珍道中が始まります。
(to be continued)

5/25/07(FRI)
 留学記(45) ・・・ 北極圏(7)
 米国からの二人連れの名はサラとデビー、我々と同じ大学生。その日は偶々、幸運にもわれら4人だけが宿泊客、お決まりの自己紹介から始まって話が盛り上がりました。彼女達はカリフォルニアの出身で、やはりヒッチハイクでひと月の予定でできるだけヨーロッパを回るとのことでした。お世辞にも美人とは云えない二人でしたがデビーの方は180cmくらい、サラは150cmくらいの凸凹コンビ、気立てがよくすっかり仲良くなりました。次の日の予定を聞くと我々と同じベルゲン、オスロから西にスカンジナヴィア山脈を越えたところにあり、北海に面しノルウエーの旧首都です。我々は、二人にある賭けを提案しました。ある賭けとは、次の日の目的地ベルゲンのユースホステルまでどちらのペアーが先につけるかを競争する、ということでした。賞品はベルゲンでのディナー、米国の凸凹コンビ対日独の凸凹コンビ(我々は190cmと170cmです)の対決です。 ヒッチハイクの場合、どうして女性の方が有利です。乗せるほうも、むさ苦しい男どもよりは花のある女性を乗せたがるのはいたしかたありません。このハンディを克服すべく次の朝は6時に起床、朝食もそこそこに出発しました。この時期北欧は白夜、沈まぬ太陽(どこかの小説?)に見送られて、”いざベルゲンに”!!
(to be continued)

6/1/07(FRI)
 留学記(46) ・・・ 北極圏(8)
 米国コンビもほぼ同時刻にユース前をスタート、ベルゲンでの再会を約して出発しました。最初のポイントでは、予想通り彼女達が乗り心地の良さそうなセダンをヒッチハイクして先行、我々も少し遅れてトラックをヒッチハイクして上々の滑り出しです。オスロからベルゲンまでは400km以上、スカンジナヴィア山脈の一番南を東から西に横断する山道です。
 ヴァイキングの末裔を地でいくような風貌の運転手は、その外見とは裏腹にとても親切な方でバスガイドのように英語とドイツ語でいろいろ説明してくれました。彼の目的地は山頂付近にあるスキー場、食料品の配達とのことでした。街中を過ぎて山道に入ると偶に見える家以外は、木と岩と川と青い空。6月のスカンジナヴィア山脈は雪解けの季節です。川を流れる清冽な水と目に染みるような新緑が我々を歓迎してくれました。
 山の天気は変わりやすいのは万国共通なようで、スキー場につく頃には空は厚い雲で覆われ、なんだか不吉な予感がしました。ヴァイキング氏からは”スキー場にはベルゲン側からのお客もいるので、それを捕まえればいい”とのグッドアドヴァイスをもらってお別れです。スキー場で遅い昼食をとっていると、なにやら怪しい雲行き、不吉な予感が的中して雪が舞い始めました。
(to be continued)

6/8/07(FRI)
 留学記(47) ・・・ 北極圏(9)
 雲行きが怪しくなってきたので、昼飯のバケット+ソーセージもそこそこに、早速ヒッチハイク開始です。例によって、胸には日独の国旗、”BERGEN”のカードを抱えて始めたのですが、如何せん交通量が少ない。一人はスキー場の駐車場に移動してベルゲン帰りの車を探しましたが見つかりません。そうこうしている内に雪が激しくなり出しました。そのうちにおかしな事に気づきました。我々を見捨てて走り去った車が引き返して来たのです。親切な運転手の一人が、道路が雪のために通行止めになったことを教えてくれました。ヒッチハイクはあきらめざろう得ません、ホテルに泊まるのは論外、寝袋でスキー場での野宿も寒そうです。前途ある(?)若者が二人、スキー場で凍死なんて洒落にもなりません。
 ホテルのロビーを借りて暖を取りながら相談した結果、我々は歩くことにしました。一番近いユースはボスという村にあって、鉄道を使って行くことができます。我々は最寄の鉄道の駅まで歩くことにしました。駅までは約4−5km、山道なので時間が掛かることは覚悟していたのですが、結局2時間掛かりました。寂しい、雪の降る山道、熊が出てきそうな・・・、正直恐怖を感じていました。この時期なので暗くならないことだけが救いでした。駅の明かりが見えたときには涙が出てきました。
(to be continued)

6/29/07(FRI)
 留学記(48) ・・・ 北極圏(10)
 駅の暖かいストーブで冷えた身体を温めながら待つこと30分、鄙びた駅にぴったりの田舎電車が来ました。山間の渓谷を楽しみながら20−30分位乗ったでしょうか、ボスに到着。ボスは、ほんとうに小さく、かわいらしい村でした。我々は雪道を踏みしめながら歩いてユースに向かいました。ユースにつきチェックインして人心地がつくと急に空腹を感じたので食堂にいくと、どこかで見た二人組みがいるではありませんか。そうです、サラとデビーの米国凸凹コンビが旺盛な食欲を満たしている最中でした。早速、我々もジョインして食事、温かいスープとおいしいパンが空腹を満たしてくれました。
 腹が膨れると、お互いの冒険談の始まりです。彼女たちも、ほぼ同じような苦境に陥ったのですが、先行していた分被害は軽微で駅までの歩きは少しだけで済んだそうです。我々の話をすると、文字通り腹を抱えて大笑いされてしまいました。
 ボスのユースは、小さな湖のそばにあって、まるでおとぎの国から飛び出してきたような建物でした。満天の星とまんまるい月が小さな湖を映し出す・・・というような情景がぴったりの場所です。不運にも白夜で、空には星はなくしらけた月と力ない太陽があるだけでした。後年、ドイツ勤務の折、このロマンティックな光景が忘れられずにもう一度ボスを訪問、予想通りの情景を堪能しました。
(to be continued)

7/6/07(FRI)
 留学記(49) ・・・ 北極圏(11)
 ボスで一夜を過ごして元気を取り戻すと、次の目的地ベルゲンに向かいました。ヒッチハイクを再開するつもりでしたが、少しのんびりとしたい気持ちもあって、ボスのユースのペアレントが薦める例の田舎電車でベルゲンに向かうことになりました。米国凸凹コンビとは休戦、4人いっしょにボスを出発しました。この日は、幸いなことに天気がよく、スカンディナヴィアの雪解けと、新緑のコントラストがなんとも言えず、4人での楽しいおしゃべりも旅に花を添えてくれました。
 ペアレントが薦めてくれた田舎電車の旅の一番の理由はフィヨルドでした。ベルゲンはフィヨルド見物の基地としても有名で、電車はベルゲンに近くなるとフィヨルドに沿って走ります。怖いくらいに切り立った断崖を眺めながら、ゆっくりと大自然が演出するドラマを堪能しました。
 ベルゲン到着、ベルゲンは「山の牧場」と云う意味を持ち、11世紀に建設されたノルウエー第2の都市で、12−13世紀ころは首都でもありました。ベルゲンの繁栄は干しダラの売買によって築かれたもので、ハンブルクと同じハンザ同盟の一員で、このハンザ商人たちの隆盛は16世紀半ばまで続き、近年では、ノルウエー最大の商業都市、船舶工業都市として重要な位置を占めています。
 ベルゲンのユースに落ち着いた我々は、珍しくディナーを奮発、北欧名物の魚料理に舌づづみをうち、米国凸凹コンビとお互いの健闘を称えあいました。
(to be continued)

7/13/07(FRI)
 留学記(50) ・・・ 北極圏(12)
 一般に北極圏とは、北緯66度33分以北を指します。我々は、ベルゲンからフィヨルドで有名なトロンハイムを経てボーデーを最終目的地と決めました。残りの休暇日数から逆算するとスケジュールがかなりタイトになっていましたので、やむを得ず、ここからは鉄道を主に使うことにしました。トロンハイムまでは、交通量もあるということなのでヒッチハイク、そのあとボーデーまでは鉄道です。ヒッチハイクは、順調でその日のうちにトロンハイムに到着、トロンハイムはノルウエー第3の都市で、町は雪原とフィヨルドに囲まれていて、バイキングのイメージとは似ても似つかない可愛らしい家並みが印象的でした。
 トロンハイムからボーデーまでは鉄道だったので気楽な旅、フィヨルドを横目に見ながら、よくもここまで来たものだと自分の冒険心に感心しきりでした。約一日でボーデー到着、少し大げさですが、20世紀はじめに人類はじめての南極点に到達した「アムンゼン」の心境とでも言えばいいのか、とにかく一仕事終えたあとの満足感はえも言われぬ気持ちでした。
(to be continued)

続きはこちらです。


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